この記事は愛媛県新居浜市の各地の歴史を知ってもらうため「白浜地区」についてまとめたものです。
新居浜市の変遷
愛媛県新居浜市は元禄4年(1691年)の別子銅山開坑以来、住友系企業の企業城下町として発展を遂げてきた町であると同時に、塩田事業も盛んだった街として知られています。
- 昭和12年(1937年):新居浜町、金子村、高津村が合併し新居浜市になる
- 昭和28年(1953年):垣生村、神郷村、多喜浜村、大島を合併
- 昭和30年(1955年):船木村、泉川村、中萩村、大生院村を合併
- 平成15年(2003年):別子山村を合併
白浜自治会は、多喜浜村が新居浜市と合併した昭和28年(1953年)に発足されました。
白浜地区の発展
白浜地区を含む多喜浜塩田は下記の5つの浜で構成されていました。
- 古浜:享保8年(1723年)~ 約10.3ha→約10.5ha
- 東分:享保18年(1733年)~ 約25.1ha
- 西分:宝暦9年(1759年)~ 約14.3ha→約6.6ha
- 北浜:文政6年(1823年)~ 約40.3ha(西条藩直営)
- 三喜浜:慶応元年(1865年)~ 約40ha
塩田事業が最も盛んだった昭和10年~20年代の白浜地区は、120軒のうち30軒が商店等を営む世帯で、集落の1/4がお店だったことから「白浜銀座」と呼ばれていました。
神郷地区にある駅の名前が「多喜浜駅」なのも、当時の多喜浜地区の隆盛を感じることができるポイントの一つです。
白浜の街には食料品や日用品はもちろん、食堂や旅館、果ては劇場や遊郭のような娯楽施設まで揃っており、その地域だけで生活が成り立っていたとのこと。
塩田事業の成長と共に栄え、昭和34年(1959年)に塩田が廃止となるまで、多喜浜地区の住民、そして塩田関連の労働者を支えた街だったそうです。
今とは違う湊神社の位置
現在の湊神社は多喜浜地区の山手に位置しますが、塩田事業が盛んだった頃は多喜浜地区全域に広がる塩田の中心に位置し、「浜の宮」と呼ばれていました。
現在の白浜地区
白浜地区には約200世帯の人々が暮らしており、塩田廃止後空き地だった土地は埋め立てられ、現在は新居浜市随一の工業団地に生まれ変わっています。
今も昔と変わらず、新居浜市の経済を支える力強い街です。
白浜地区周辺の店舗・施設
最後に
最後まで当記事をお読みいただき、ありがとうございました!
また、白浜地区の歴史についてより詳しい情報をお持ちの方は、是非新居浜BuzzSpot!にご連絡お願いいたします!
白浜まさこ待受画像ゲット!
新居のまつりムスメ。白浜まさこちゃんの待受画像(SNSアイコン)は下記リンクからゲット!